僧侶・仏教者の小生が、何故、儒教を話すのか?
と質問されました。 疑問を投げかけられました。(笑)
ごもっともです。 でも、真の仏教は、ただ、
「 般若の智慧で、慈悲の実践 」ですから、
< 般若の智慧から観ると、全ては、『 仏のあらわれ 』
『 仏の光 』 なのです。
< また、慈悲の実践のとき、全ては、『 師 』であり、
『 友 』なのです。
小生は、このブログをとうして、
「 よりよい人間になりたいという< こころ >を、
気づき・守り・育てあっていきたく思います。
よりよい社会をつくりたいという< ねがい >も、
気づき・守り・育てあっていきたいと存知ます。
この< こころ >
この< ねがい >は、みんな・みんな、
人種・民族・国家・言語に関係なく、
もっています。( 確信 )( 笑 )( 笑えない )
そして、ひとり・一人・個個・各々・おのおの・
日常生活の中から< しあわせ >を
かんじとって、いただきたい、という気持ちです。
若輩であり( もう、言えないか )( 笑 )、
暗愚ですから( 笑 )、
小生の想像もできない、苦しみ・悲しみの中に、
いらっしゃられる方々も、
今、苦悩・苦痛の方々も、
いらっしゃられる事でしょう、が、、、、、、。
愚僧は、少しでも、お役に立ちたく願っています。
ただ、そのための、方法・智慧・教え・・・・は、
もう、すべて明らかと、小生は存じています。
もう、10万年の人類の歴史で探究されている
気がいたしております。
( こころ・精神の世界ですが、、、、、)
実践です。 実行です。
ただ、 実践・実行です。
そのためには、どうすべきなのか?
< きっかけ・機会・チャンス・タイミング >が大切。
そのためには、どうすべきか? ( チャンスをつかむためには )
< 思い、実践したいという思いを
より強くしなくては、ならない。
( 純粋さ を高める )
( 純度をあげる )事が大切です。
このために、やはり、
天地のもと、 閑坐・数息・正心が、必要なのか?
師友とともに、閑坐・数息・正心が、必要なのか?
( こころ・おもい・からだ を 一つにしていく事 )
古人、曰く ( いわく )
< ( 善をなし 悪をなさない )という事
3歳の童子も知る、されども、80歳になっても、できない。 >
ガーン、 なぐられた、感じです。
皆さま、
あらゆる物・事・人・から、学び、実践していこうでは
ございませんか。
」
駄弁です。
素庵さま、すみません。 残月 合掌
< どのようなときでも
こうふくを かんじきれますように >
< 清き光が 満ち満ち溢れ ますように >
< 苦しみ 悲しさが すこしでも へりますように >
< あらゆる存在が 粗末に されませんように >
< おさなきもの よわきものを 大切に >
< まちがい てちがい かんちがいを、
あまりしないように 導きくださいませ >
< 不平・不満・不服のまえに、ひと工夫を
できますように、 深呼吸 >
< 人を せめないように。 みな師・みな友ぞ >
< 御病気の( なかま )の ご回復を >
< 御ケガの( なかま )の ご回復を >
今朝はゆっくり、失礼いたします。
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