< 鐘が鳴る 撞木が鳴る 鐘と撞木が鳴る 鐘も撞木も鳴らない >
この4つの立場・観点を、自由に往来できたなら、人は幸福かもしれない。
その時・その場・その方に応じて、他者も自分も活かせる事ができれば、人は不満・不服を持たないかもしれない。 そして、1番大切なのは<鐘も撞木も鳴らない>という見方・とらえ方を、できるという事ではないでしょうか。 つい私たちは<鐘><撞木>に、とらわれ・ひつかかって、他者・自分を粗末にしたり・悪くいつたりして、生きにくくしてしまいがちです。
空気がなければ、ひびかず、聞こえずーーーーー鳴らない(と、いえる)
心がなければ、ひびけど、聞こえずーーーーーー鳴らない(と、いえる)
空気・心の無い世界を、時々、想像したり・感じたりして、人の世につきまとう不満・不服・不平を乗り越えたいものです。 <鐘・撞木があり、音が鳴る>ことは、社会的存在である私たちとって、絶対的でありますが、<鐘・撞木があるが、音は鳴らない>という見方・とらえ方(立場・観点)ができるようになれば、どれだけ絶対的に、安心・安楽・やすらぎを、身近に感じられ・体得しやすくなる事でしょうか。
心の無い世界(我の無い世界)とは???ーーーーーー東洋精神文化の宝庫・・・・・・ 開かれる。
嵐山 残月
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