ある詩 「 花 語らず 」 の作者のことです。
京都の東山に、南禅寺という寺院がございます。
そこの数代前の、住職さまでございます。
世界共通語といはれる、エスペラント語を学ばられ
くらい開明的な禅の宗匠であられました。
昔、中国には( 北禅 )という都市的貴族的学問的仏教
があったようです。 しかし、徐々に衰退していきました。
南禅寺の( 南禅 )は、大陸の南に広がっていたグループ
で、よく発展したそうです。 地方的土着的実践的仏教であり、
日本に伝えられたものにございます。
禅思想が、『 本来 無一物 』
( ほんらい むいちぶつ )
という語句に、象徴されることが、よくございます。
これは( 南禅 )からの、言葉でございます。
「 ほんとうは、 何も無い、一物すら無い 」
「 さあ どうだ 、 さわやかでは ないか 」
「 いったい 何物が わたしを、 あなたを
悩まし、迷わし、 苦しめてるのか? 」
明治時代からの、世界へ広がっる歴史は
面白いですが、ブログ主旨と異なるので止めたいと存じます。
( 笑 ) ただ、禅仏教の歴史で、愚僧が面白く感じている
事だけお話させてもらいます。
インドから中国へ、伝わる時間と、
中国から日本へ、伝わる時間と、
日本から西欧へ、伝わる時間とが、
三つの時間・世代数が同じという
不思議、愚僧には、不可思議です。( 大笑 )
何か、法則でもあるのでしょうか?( 笑 )
予測可能に、なります。( 笑 )( なんのために )
人類の歴史から、
人間の歴史から、
世界の歴史からも、
大悲閣の歴史と未来を、考え実践
していきたく存じます。( 笑 )(アホか)(大笑)
しかし、≪ こころ ≫には
< 古今 >( いま も むかし も )無く、
< 東西南北 上下 >無いのだから、
可能である。
( 自信過剰の大馬鹿者です )
( 笑えない )( 笑ってはいけない )
( 大反省 )
駄弁がすぎました 残月 大合掌
< 本来 無一物
痛い手足も
疲れた腰も
病んだ体も
あるでは、ないか?
悲しい心も、
辛い気持ちも、
悪い思いも、
あるでは、ないか?
月しろく 風はきよしと 思えども
この世はつらし 物あるかぎり
辛くとも 目耳に教え ふれるなば
秋の明月 ただ 風清し
物は物 心は心 金は金
この教えにて すすむ大道
駄歌 三首 >
< 御病気・御ケガの( なかも )の
一日でも お早い ご回復を >
走りながら 失礼いたします。